ハーレム


ハーレムの歴史

約400年前にアフリカから北米に奴隷として連れて来られた黒人たちは、長い間、南部諸州で過酷な労働に従事させられ、南北戦争(1861-65年)を経て奴隷制廃止を迎えた。その後ニューヨークにも移り住んだ黒人たちは、やがてマンハッタン北部のハーレムに落ち着き、ここで独自のインナーシティ・ブラックカルチャー(都市に住む黒人の文化)を開花させることとなった。


・もともとはヨーロッパ系移民の住む街・

 現在ハーレムと呼ばれるマンハッタン北部のこのエリアに、最初に入植したのはオランダ人。1600年代初頭のことで、彼らはここをNieuw Haarlemと名付けた。以後、ニューヨークはイギリス領となり、それから独立戦争に突入。


 その後、時を経て1904年に地下鉄(現在の2/3線)がハーレムまで開通すると、ユダヤ系を筆頭にアイルランド系、イタリア系、ドイツ系などが住む街となった。また地下鉄建設と同時に、中流・上流層の流入を見込んでの住宅建築ラッシュも起こり、その結果ハーレムには現在も見られる美しいブラウンストーンやアパートメント・ビルが大量に建てられた。


 ところが、過剰投資によるビルの建て過ぎによりハーレムの地価が暴落し、アパートの家賃も急激に下がったため、折しも南部の貧しさから逃れて北部に移住してきた黒人が大量に住むようになり、1920年頃迄には現在の黒人街ハーレムが形成された。

・ハーレム・ルネッサンス・

 大量の黒人が移住するやいなや、それまで押さえつけられていた黒人文化がここハーレムで一気に花開いた。この“ハーレム・ルネッサンス”と呼ばれる1920年代、多くの黒人作家、詩人、画家、ジャズ・ミュージシャンが集い、ハーレムは一躍、ブラックカルチャーの発信地として、世界中にその名を馳せることとなった。


 そのハーレム・ルネッサンスは1929年の大恐慌と共に衰退したものの、1950〜60年には、黒人が差別撤廃と地位向上を目指した公民権運動が全米で大いに盛り上がった。多くの黒人指導者がハーレムを基盤に活動し、またマルコムXが演説中に暗殺されたのも、ここハーレムである。


 公民権運動は一応の成功を収めたものの、黒人はその後も経済的には最底辺に置かれたままとなり、さらにドラッグの蔓延も手伝い、1970〜80年代にかけてハーレムは荒廃し、スラム化が進んだ。

・再開発と多様なカルチャー・

 その後、アメリカが前代未聞の好景気を迎えると、企業や投資家はハーレムにも着目するようになり、1990年代後半からは本格的なハーレム再開発が始まった。メインストリートである125丁目に全国チェーン店が次々と開店し、同時に大型マンションの新築、廃虚ビルの改築も始まり、現在もちゃくちゃくと進められている。また今年7月にクリントン元大統領がハーレムにオフィスを構え、大きな話題となったばかり。この経済開発については、地元ハーレムでは歓迎する人と、白人資本による搾取だといって懸念する人の二派に判れており、今後の成り行きが注目されている。


 また、そもそもは、いわゆる奴隷の末裔であるアフリカン−アメリカンの街であったハーレムだが、今ではラティーノ、カリビアン、西アフリカ諸国からの移民が増えており、あらゆるカルチャーを楽しめる街へと変貌しつつある。


コラム
クリントンがハーレムにやって来た!

7月30日、ハーレムにオフィスを構えるクリントン前大統領の歓迎セレモニーが、ハーレムのステイト・オフィス・ビルで行われた。当日はニューヨーク州・市とハーレムの主だった黒人政治家が勢揃いし、またハーレム少年合唱団やゴスペル・グループなどが楽しいショーを披露。最後にクリントンが「私はハーレムの良き住人です!」と朗らかに宣言した際には、集まった観衆から大きな拍手と声援が巻き起こった。

U.S. Front Line 2001/09/05号掲載記事
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