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ブルース
ブラックミュージック!!

ブルーな気持ち(憂鬱)を歌うからブルースなんて渋すぎる。けれど黒人の“ブルー”とは、一体どんな憂鬱なのだろう?


 青い空、白い雲、照りつける太陽、そよとも吹かない風。そんな、じっとしていても汗が吹き出るほどに蒸し暑い日、見渡すばかりの綿花畑の間に横たわる埃っぽい道を、痩せた若い黒人の男がテクテクと歩いている。その先にはジューク・ジョイントと呼ばれる粗末な小屋のような酒場がぽつんと建っている。けれど、その木造のみすぼらしい酒場に一歩脚を踏み入れると、そこにはギターとハーモニカの音が渦巻き、人々は歓声を上げ、板張りの床を踏み鳴らし、シンガーの擦れた歌声に聞き惚れている…これがアメリカ深南部ミシシッピ州のデルタ地方で生まれたブルースだ。


 1865年に南北戦争が終わり、約400年もの長きに渡って続いた奴隷制も遂に幕を下ろした。そして黒人たちは晴れて自由の身になった…歴史の教科書をナナメ読みすればそんなふうに思えるけれど、実はそうではなかった。生まれてからずっと奴隷として、白人奴隷主から強制された重労働だけを行ってきた黒人には、急に自由になったからといっても生活をしていく術などありはしない。だからほとんどの元奴隷黒人は、やはり白人から滅茶苦茶に悪い条件で貸し付けられた土地で小作農(シェアクロッパー)になるしかなかった。人々は畑で、奴隷の頃と変わらない重労働に汗を流しながら、そんな自身の不運や日々の出来事を歌にしていた。実はこれも奴隷時代からの変わらぬ習慣で、こういった歌は“ワーク・ソング”と呼ばれた。けれど奴隷主に歌詞を“検閲”されることだけはなくなったため、歌の内容は個人の感情を強調したものに変わっていき、それが“ブルース=憂鬱な気持ち”と呼ばれるようになった。


 ところが、中にはそんな息苦しい生活から逃げ出して南部諸州を歌い歩く風来坊もいた。「奴隷と小作農、どちらも同じように苦しいが、少なくとも小作農はイヤならやらなくてもいい。かといって他の仕事などありはしない。じゃあ、好きな歌でも歌うさ」ーこれがサン・ハウス、スリーピー・ジョン・エステス、ロバート・ジョンソンなどの元祖ブルースマンたちだ。1910〜40年頃に、安くて持ち運びに便利なギターとハーモニカだけを携えて、パーティやジューク・ジョイント、後にはブルース・ショーなどで歌った。いわゆるドサ回りの芸人だ。これら初期のブルースは“カントリー・ブルース”(田舎のブルース)とか、“戦前ブルース”(第二次世界大戦前のブルース)とか呼ばれている。アコースティック・ギターの弾き語りによる素朴でシンプルなサウンドと、失恋や貧困の様子を描いた歌詞、またはユーモラスなセックス・ソング(女性器をジャム付きロールパンに、男性器をヘビに喩えたり)が特徴だ。


 黒人にとってこの時期の南部は相変わらず厳しい場所だった。奴隷制が廃止され、黒人も一応は自由人という身分となったが、偏狭な白人にはそれが我慢できず、“自分たちの社会に侵入を始めた黒人を罰しよう”という考えが生まれた。その結果がKKK(クー・クラックス・クラン)という人種差別団体だった。無気味な白頭巾を被って黒人の家を焼き払ったり、黒人をリンチにかけたりした。しばらく後には、一般人でさえも黒人をリンチの挙げ句に殺してしまうという事件が急増した。これでは道を歩くことさえも恐怖だったはずだが、それでもブルース・マンたちは町から町へと渡り歩き、飄々(ひょうひょう)と歌い続けた。けれど、彼らのユーモラスなブルースの裏には、本物のブルーな気持ち(憂鬱)が隠されていたに違いない。


 そんなカントリー・ブルースマンも、いつまでも南部諸州に留まってはおらず、1930年代頃になると大都会シカゴへと出て行く者が増えていった。彼らもシカゴではこざっぱりとしたスーツに身を包み、エレキ・ギターを手にし始めた。曲調もだんだんと都会風に垢抜けていったし、ホーン・セクションをバックに付けることも増え、独自のサウンドが形作られていった。だからマディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、フレディ・キング、ジョン・リー・フッカーなどに代表されるこの時期のエレクトリック・ブルースは一般的に“シカゴ・ブルース”と呼ばれ、特に50〜60年代に人気を博した。特に60年代になると白人音楽ファンの間にもブルース・ブームが起こり、エリック・クラプトン、レッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズを始めとする多くのミュージシャンもブルースを夢中になって聴き、コピーした。つまり、ブルースこそは60〜70年代ロックの下地といえるのだ。


 今ではブルースをプレイする若いミュージシャンは減ってしまったが、ロバート・ジョンソン系のカントリー・ブルースにフォークやソウルのフレイバーを持ち込み、ユニークでコンテンポラリーなブルースを聴かせるケブ・モや、シカゴ・ブルースの流れを受け継ぐロバート・クレイがいる。また“ネオ・ソウル”と称されるインディア・アリーもアコースティック・ブルースの影響を受けていることは確かだ。




● スリーピー・ジョン・エスティス ●

 1899年に南部テネシー州に生まれたスリーピー・ジョン・エスティスは、カントリー・ブルースの代表格。刑務所から鉄道工事に駆り出され、そこでワーク・ソングを歌っている間に独特の泣きのボーカル・スタイルを身につけたという。1920年代にはハウス・パーティやメディシン・ショー(薬の屋外販売を盛り上げるための音楽ショー)などで演奏して回っていたエスティスだが、ほとんどホームレス状態とも言える貧しさだった。それでも当時から白人客にも人気があり、レコーディングも行っていたが、実際に大きく評価されたのは1960年代のブルース・ブーム時のこと。


 絞り出すような声、粗末なギターの音色、歌いながら足で床を踏み鳴らすドスンドスンという音が混然一体となったエステスのブルースは、なんとも言えない深い深い味わいを持つ。




1: ヒップホップ/モス・デフ
2: R&B ソウル/オーティス・レディング
3: モータウン/ダイアナ・ロス
4: ジャズ/マイルス・デイヴィス
5: ブルース/スリーピー・ジョン・エスティス
6: ゴスペル/カーク・フランクリン
7: 年表で見るブラックミュージックの歴史

U.S. Front Line No.168(2002/08/20号)掲載記事
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