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バービー(1)
〜Barbie〜
アメリカンブランド こぼれ話 #18


  アメリカの少女たちにとって、バービー人形は「自分もこうなりたい」と願う夢と憧れの対象。しかし来年で発売45周年を迎えるバービーは、アメリカ社会の移り変わりを映し出す鑑(かがみ)の役割をも果たしてきた。

 第二次世界大戦が終結した1945年。南カリフォルニアに住む若い夫婦が、写真立ての製造販売をするためにマテル社を立ち上げた。ところが夫のエリオットが、写真立ての製造工程で出る木くずでドールハウス用のミニチュア家具を作り出したため、同社はたちまち玩具会社へと変貌した。

 いくつかのヒット商品を出した後、妻のルースは紙の着せ替え人形に熱中する娘バーバラを見て、ファッショナブルな着せ替え人形を作ることを思い立った。ところが当時は赤ちゃんの姿をした抱き人形が主流で、「ティーンエイジャーの顔立ちをしたファッション人形など成功するはずがない」という声が出た。しかしルースは、その人形に娘の愛称であるバービーという名前を付け、販売を開始した。1959年のことだった。

 この記念すべき初代バービーは、ブロンドのポニーテール、アイラインのくっきりと引かれたブルーの瞳、極端にくびれたウエストを持ち、モダンな黒と白のストライプの水着を着ていた。

 周囲の予想を見事に裏切り、発売されるや否やバービーは大ヒット。一体3ドルのバービーが50万体も売れた。

 勢い付いたマテル社は、61年にバービーのボーイフレンド「ケン」、63年に親友「ミッジ」、64年に妹「スキッパー」を次々と発売。こうしてバービー・ファミリーは、アメリカの少女たちの生活に浸透していった。

 その頃、世間では黒人が平等な権利を求めて起こした公民権運動が盛り上がっており、63年には人種差別禁止を定めた公民権法が制定された。それから5年を経た68年、マテル社も遂に初の黒人版バービー「クリスティー」を発売した。

 それでもバービー自身は「金髪碧眼の美人」路線を貫き続け、1970年代にはフェミニスト・グループから「女性を外観で評価する風潮に荷担している」と非難の声が上がった。

 とは言え、バービーの顔立ちや衣装は実社会のファッションの移り変わりに合わせて目まぐるしい変化を遂げてきた。デビュー時には流し目でツンとすました表情だったが、今では軽く日焼けした肌にナチュラルメイクを施し、口元には「ゴールデン・スマイル」と呼ばれる微笑みを浮かべている。衣装も1970年代のヒッピー風、1980年代のディスコ系、最近のキャリアウーマン系など、それぞれの時代を如実に反映している。

 また、初代バービーは10代のファッション・モデルと設定されていたが、以後、教師、医者、デザイナー、果ては湾岸戦争の兵士や大統領候補に至るまで80種以上もの「職業」に就いており、それぞれのコスチュームで発売されてきた。

 こうしてバービーが華麗なシングル・キャリアウーマン振りを発揮する一方、親友のミッジは現在、マタニティ姿で販売されている。お腹にふくらみのパーツが付いており、それを外して付属の赤ちゃん人形を抱かせることで「産前・産後」として遊べるようになっている。夫の「アラン」と、推定1歳の長男「ライアン」、若々しくて優しそうな「祖父母」も別売りされている。

 今ではラティーノの「テレサ」も売り出されており、全米の少女たちは自分自身のエスニック(*1)や、好みのライフスタイルをバービー(*2)に投影しながら、今日もロマンチックな夢を育み続けている。

*1=アジア系アメリカ人の少女は白人バービーを好む傾向があり、アジア系バービーの売れ行きは振るわないことから、マテル社はアジア系の発売と廃止を繰り返している

*2=メインのバービー以外の人形にも個別の名前がついているが、グループ全体を指す場合も「バービー」と言う


U.S. FrontLine2004年1/5号掲載
禁転載




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