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リーバイス
〜Levi's〜
アメリカンブランド こぼれ話 #08


 アメリカが生んだもっとも偉大な発明品のひとつと言われるジーンズ。そのジーンズの生みの親は、実はドイツ生まれの乾物屋、リーバイ・ストラウスという人物だった。


 1829年にドイツで乾物屋の息子として生まれたリーバイは、18歳でニューヨークへと渡る。先に渡米していた兄の乾物屋で働いていたリーバイは、西海岸でゴールド・ラッシュが起こると、それを絶好のビジネス・チャンスとみてサンフランシスコに移り、1853年に24歳で自らの乾物屋を開く。10年後には社名を現在のリーバイ・ストラウス&カンパニーに変え、他の事業にも手を広げて敏腕ビジネスマンとして名を馳せていく。


 そんなある日、リーバイはネバダ州で洋品店を営むジェイコブ・デービスから一通の手紙を受け取る。ジェイコブの得意客が、作業ズボンのポケットのヘリがすぐに破れるとクレームをつけてきたと言う。そこで、金属製の小さなリベット(鋲)をポケットに打ち付けてはがれないようにしたところ好評で、ジェイコブは他の洋品店にマネをされる前に特許を取ろうと思い立った。しかし特許申請料の68ドルが工面できず、そこで生地の仕入れ先であったリーバイに出資を依頼してきたのだった。


 当時はまだ“ジーンズ”という言葉はなく、デニム製の作業ズボンは“ウエスト・オーバーオール”と呼ばれていたのだが、リーバイは1873年にリベット付きウエスト・オーバーオールの特許を取得して発売を始めた。そして1890年には、現在に至るまでジーンズの銘品とされている“501”を発売。ところがリーバイは501の発売を最後にビジネスの一線からは身を引き、自身のルーツであるユダヤ系社会への慈善事業に専念し、1902年に73歳でこの世を去った。


 リーバイの死後もジーンズは作業ズボンとして順調に売れた。1930年代には西部劇映画の中でカウボーイが履き、 第二次世界大戦中にはアメリカ兵が派兵先の国でも履いたことからジーンズは世界中に広まった。50年代にはジェームズ・ディーンが愛用したために若者のあいだでブームとなり、呼び名もそれまでの“ウエスト・オーバーオール”からジーンズへと変わった。60〜70年代には裾広がりのベルボトムと呼ばれるスタイルが一世を風靡し、80年代にはデザイナーズ・ジーンズが登場した。

 このようにジーンズはいつの時代もポピュラーなファッションだったが、実は近年、リーバイスの人気は信じられないほどに落ちている。同社の世界総売上げは1996年度の71億ドルから2001年度の42億ドルにまでに激減。その理由は、ゲス、ディーゼルといったファッショナブルでヒップなイメージの後発ブランドの台頭や、ヒップホップの影響でバギーと呼ばれるダブダブのタイプが流行っているにも関わらず、それに対応しなかったことなどが考えられる。つまり、若者のあいだではリーバイスはいまや“ダサい”ブランドとなってしまっているのだ。


 同社はこの窮地から脱するために、99年に元ペプシコーラ・ノースアメリカCEOのフィル・マリノーを引き抜いている。マリノーは女性向けのウエストラインの低いセクシーなデザインを売り出し、視聴者の目を引くキャッチーなCMを放映するなどの改革を次々と行っており、その甲斐あって2002年度の業績はなんとか回復の兆しを見せているという。


 とにもかくにも、作業着として考案されたズボンが、世紀を超えて数十億ドル規模の市場を持つファッション・アイテムになるとは、18世紀当時の誰が予想し得ただろう。リーバイ・ストラウス&カンパニー社は来年、創立150周年を迎える。


U.S. FrontLine2002年2/5号掲載
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