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ハーシー
〜Hersey's〜
アメリカンブランド こぼれ話 #06

 アメリカでチョコレートと言えば、もちろんハーシー。おなじみの板チョコと可愛いキス・チョコの他にも、オレンジ色のピーナッツバターチョコ「Reese's」やイギリス産だと思っていた「Kit Kat」、チョコレート以外では、ねじった紐状グミ「Twizzlers」etc., etc...実はみんなハーシー製だ。

 世界総売上42億ドルと、今ではアメリカ製菓界に君臨するハーシー・フード・コーポレーション。その創設者ミルトン・ハーシーは単なる起業家ではなく、かつては高価な商品だったチョコレートを一般に普及させた功労者であると共に、一生を通して「奉仕」の精神で社会に貢献した人物でもある。

 ミルトン・ハーシーは1857年にペンシルバニア州のデリー・チャーチという小さな村で生まれている。当時この辺りの住人はキリスト教メノナイト派に属する敬虔なクリスチャンだった。メノナイト派特有の勤労精神を尊んでいた父親は、ハーシーが小学校4年を終えると印刷工見習いとして働きに出した。ところが印刷業が好きになれなかったハーシーは数年後に菓子職人見習いとなり、26歳でペンシルベニアに戻ってキャラメル会社を興している。

 1894年、博覧会で見たドイツ製のチョコレート製造機に魅せられたハーシーは早速これを購入し、チョコレートでコーティングしたキャラメルを売り出した。すっかりチョコレートに夢中になってしまったハーシーは、当時まだ高価だったチョコレートを大量生産により価格を下げ、アメリカ中に普及させることを考え始めた。1900年、その夢を実現させるために、当時43歳だったハーシーは順調だったキャラメル会社をなんと売却し、新たに会社を設立している。これが現在のハーシー・フード・コーポレーションの始まりだ。ハーシーはチョコレート製造に欠かせない新鮮な牛乳を大量に手に入れるため、生まれ故郷のデリー・チャーチを工場建設の地に選んだ。

 ところがハーシーが建てたのは工場だけではなかった。その界隈に銀行、学校、デパート、公園、教会、動物園、スポーツアリーナ、病院、トロリーバス・システムなどを次々と建設した。街をひとつ丸ごと作り上げたとさえ言える。地名もデリー・チャーチからハーシーへと変えられ、現在では37平方キロメートルのエリアに約1万3千人が居住。そもそもは従業員の娯楽のために作られた遊園地もハーシー・チョコのテーマパークとなり、年間2万人の観光客で賑わっている。街のメインストリートにはチョコレート・アベニュー、ココア・アベニューといった名前が付けられ、キス・チョコの形をしたロマンチックな街灯も名物となっている。

 けれどハーシーがこの街を作り上げた本当の理由は、「成功を手にした者は、それを他者と分かち合うべし」という固い信念と、メノナイト派の教えのひとつである「奉仕」の精神にあった。例えば妻とのあいだに子供ができなかったハーシーは、自分の死後も財産が有効に使われることを願い、ハーシー工業学校を創設した。この学校は今ではミルトン・ハーシー・スクールと呼ばれ、生徒は全員が貧しい家庭の子供で学費は無料となっている。

 新しいものを取り入れる好奇心、リスクを恐れないベンチャー精神、そして人に尽くすクリスチャンとしての信条。これがあのスイートなハーシー・チョコの隠された原材料だったのだ。



U.S. FrontLine2002年2/5号掲載
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