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リズム&イージーネス
ブラックカルチャーの魅力



●ニューヨークにおけるブラックカルチャー



 ニューヨークのダウンタウンを歩いてみよう。黒人はもちろん、ラティーノ、白人、アジア系、時にはインド系とおぼしきティーンエイジャーまでが、ショーンジョンやファットファームといったストリート系ブランドのファッションに身を包み、CDウォークマンでラップを聴きながら歩いている。路上で友人同士がばったり出会えば、交わす挨拶は "Yo, wassup?!"


 なぜ、アメリカの若者たちは、人種やエスニック(民族)、さらには宗教の垣根まで越えて、ここまでブラックカルチャーに惹き付けられるのだろう。もちろん、若者特有の、常に新しいもの、過激なもの、そして親が眉をひそめるものに敢えて傾倒するという生態が作用していることは確か。けれど本質的な理由は、黒人の持つ<リズム>と<イージーさ(気楽さ)>のコンビネーションにある。


 黒人のリズムには、独特の<間(ま)>がある。たとえ、たたみかけるような性急なリズムであっても、そこには必ず彼ら特有の<間>がある。これは音楽やダンスに限ったことではなく、普段のなにげない立ち居振る舞いや喋り方にも必ずある。この、言葉では説明のしようのない<間>、これこそがブラックリズム、ブラックビート、ブラックグルーヴだ。だから白人の若者が黒人スラングを口にする時、いくら黒人っぽく聞こえるように苦心しても、所詮はギクシャクとした出来損ないのコピーで終わってしまう。そして、通りすがりにそんな若者を見かけた黒人たちは、呆れたように頭を振り、一言つぶやくのである。"White people…"(白人ときたら…)。


 ブラックカルチャーのもうひとつの魅力が、黒人たちの<イージーさ>だ。アメリカで黒人を間近に見ていると、彼らの余裕振りというか、泰然とした態度に驚かされることがしばしば。いつもゆったりと構え、お互いにジョークを交わしては笑い、物事には決して動じないように見える。


 このイージーさは、彼らの歴史が育んできたものだ。今さら説明するまでもなく、アメリカの黒人は、かつてアフリカから連れて来られた奴隷の子孫であり、奴隷制の廃止後も黒人差別という重荷を背持って生きてきた。さすがに今では、白人と同じレストランでは食事ができないといった類の直接的な差別はなくなったものの、目に見えない形でなら、まだまだ残っている。たとえば、ニューヨークなどの大都市は日本以上の学歴社会で、オフィスワークに就くためには大卒であることが必須条件。しかし黒人家庭の多くは、差別の歴史がもたらした貧困の中にある。したがって若者たちは、よほどがんばって奨学金を得ない限りは進学できない。すると収入の良い仕事にも就けず、貧困のまま…という悪循環が形作られている。けれど、彼らはそんな状況を受け入れ、楽しみを見つけ出す術を知っている。


 その分かりやすい例は、プラスチック・バケツを叩くストリート・ドラマーだ。彼らがバケツを叩くのは、高価なドラムが買えないからだ。しかし、彼らは<結果オーライ>だ。本物のドラムが買えないなら「バケツでいいじゃん」と、どこかで拾ってきたバケツを叩き始め、そうしたら、「これ、本物のドラムよりいい音を出すじゃないか」となり、ついでに「このほうが持ち運びもラクだし、客にもウケるし」というわけで、プラスチック・バケツのストリート・パフォーマンスが確立した。つまり、自分を取り巻く環境が厳しいのなら、それを嘆くよりも軽く肩をすくめてみせ、あとは出来る範囲でエンジョイしようという精神だ。


 だから彼らは、なにかに対して焦ったり、必死になるということが少ない。いつでもマイペース。これが彼ら特有のイージーなフレイバーを生み出している。それはハーレムのストリートを歩いてみれば、よく分かる。ハーレムもニューヨーク/マンハッタンの一部なのに、他の地域とはまったく違った風景を持っている。まず、舗道が広い。加えて高層ビルも少なく、ミッドタウンやダウンタウンに比べて格段に<空間>がある。そのゆったりとした街には、いつもたくさんの人がたむろしている。おじいさん・おばあさんから子供たちや若い男たちまで、日がな一日をストリートで過ごしている。夏の盛りでも、吐く息の白い季節でも関係ない。誰も彼もが "Easy, baby."(気楽にね、ベイビー)、 "I'm chillin'."(リラックスしてるんだよ)なのである。もっとも、このイージー振りも時々は度が過ぎてレイジーとなり、例えば2時の待ち合わせが5時となって…これが原因で、若者たちがせっかくの成功へのチャンスを自らフイにしてしまうことも少なくはないのだが。


 とにかく、物事をありのままに受け入れるおおらかさと、しかし、いったん身体を動かし始めたら堰を切ったように溢れ出るリズム。他の誰にも真似の出来ないこのコントラストが、ブラックカルチャーがアメリカ中の若者を惹き付けて止まない理由だ。


●日本の若者とブラックカルチャー


 では、アメリカから遠く隔たった日本の若者たちがブラックカルチャーに夢中になっているのはなぜだろう。生身の黒人と接することがあまりなく、アメリカの黒人社会事情についての情報もほとんど入ってこない場所で、作品として出来上がってきた音楽やダンスだけを鑑賞せざるを得ない日本のファンにとってのブラックカルチャーの魅力とは?


 <カルチャー>とは本来、音楽やダンスといったアートだけではなく、言語・食生活・習慣・思想・宗教など、生活に関わるすべての事象を含む。けれどアートは、作品が強力なパワーを持っていれば、その背景や理屈は抜きでも、充分に人を惹き付けてしまう。だから日本の若者たちも、アメリカの白人やアジア系の若者たちと同じように、ブラックミュージックとダンスに魅せられてしまうのだ。


 いったん格好いいと思ったモノは、自分でも試してみたくなるのが人の常。そこで日本の若者たちは、自らラップし、踊り始めた。するとそこには、当然のことながら日本人ならではのフレイバーが加わる。これはこれで正解だ。文化とは、このように伝播の途中でどんどんと変化し、一般化していくもの。日本人にとって分かりやすいかたちに加工されたブラックカルチャーを楽しむ人がいても一向に構わないのだ。


 ただし、それでは満足できずに「ルーツを知りたい!」「背景も知りたい!」という欲求に突き動かされる人たちもいる。こういった人たちは、黒人史を勉強したり、インターネットで現在の黒人社会に関する記事を探したりして、少しずつブラックカルチャーの核(コア)に迫ろうとする。これも正解。それぞれの人が自分に出来る範囲でブラックカルチャーを理解するための作業をし、それを楽しむ。大正解だ。


 さらに極めたい人たちは、最終的にはアメリカのブラックコミュニティまでやってくる。その際にもっとも有効な手だては、クラブやゴスペル教会を短時間でピンスポット的に回ることではなく、時間をかけて<なにもしない>でいること。ハーレムのストリートを、ひたすら歩く。にぎやかなメインストリート125丁目、生活感の漂うレノックス・アベニューや135丁目。疲れたら小さなソウルフード・レストラン(*)に入り、カウンター席に座って道行く人々を眺めたり、隣り合わせた人と言葉を交わしてみる。ブラックカルチャーのフレイバーを、ハーレムの空気から少しずつ吸い込むのだ。もっとも、ハーレム以外でなにが起きているかにも目を配り、黒人社会の中と外を見比べることも大切。ブラックカルチャーとは、アメリカ社会の主流である白人文化の対極にあるものなのだから。いずれにしても、異文化を理解するには、それなりの時間と忍耐とエネルギーが必要だ。けれど、それは必ず大きな楽しみと満足感、そしてブラックカルチャーへのさらなる親近感をもたらしてくれる。


Pan Pan (135th St. & Lenox Ave.の角)
M & G Diner (125th St. & Morningside Ave.の角)


セヴィアン・グローヴァー(タップダンサー)
2003年2〜3月来日公演パンフレットより転載





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