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2002/03/09

ニガーと、ちびくろサンボと、アフリカ
ダブルスタンダード




 「ニガー/nigger」この言葉は言うまでもなく黒人に対する蔑称で、一般的には絶対に使ってはならない言葉とされている。仮に白人が黒人をニガーと呼んだとしたら、昔はともかく現在では、怒った黒人に殴り倒されるか、または名誉棄損で訴えられても仕方のないことだと誰もが思うだろう。それほどの禁句なのだ。


 ところが「ニガー」は、黒人ラッパーのリリックには「ビッチ/bitch」と共にひんぱんに出て来る言葉としても知られている。またハーレムなどを歩いていると、お互いをニガーと呼びあうティーンエイジャーたちを見かける。「ヨー!ニガ!」「ワサップ!ニガ!」、もしくは第三者を指して「あのニガを見てみろよ」という具合。(彼らは「ニガ」と発音する) もちろんラップの影響だ。


 この問題の言葉「ニガー」がメディアで取り上げられることが最近、アメリカでは増えている。地下鉄内でニガーを連発する黒人の若者に困惑する一般の乗客を取り上げた新聞記事や、すばり『Nigger』と題された、この言葉を考察する書籍(Rondall kennedy著)など。先日はテレビ・ドラマでも、この言葉にまつわる騒動が取り上げられていた。


 公立高校の内部で起るさまざまな問題を描く「ボストン・パブリック」という人気ドラマがある。校長(チ・マクブライド)は黒人で、教師と生徒には黒人と白人が混じっており、人種にまつわるトラブルがテーマとなることも多い。先日のエピソードはこうだ。クラスに黒人と白人の親友同志がいて、白人少年が親しみを込めて黒人少年を「ニガー」と呼んだところ、それを耳にした他の黒人少年が激怒。この出来事を発端に、若い白人教師(マイケル・ラパポート)がクラスで「ニガー」という言葉についてのディスカッションを行なう。これを知った黒人教師と、普段は沈着冷静な黒人校長までが珍しく感情的になり、ディスカッションの中止を白人教師に求める。それでもディスカッションは続けられ、白人教師はクビになりかかる。けれど黒人・白人も含めてクラスの生徒全員がクビ取り消しの嘆願をし、黒人校長にも深いインパクトを残す。


 黒人校長が白人教師による「ニガー・ディスカッション」を、教師をクビにしようとするまでに嫌った理由はなんだったのだろう? それはドラマの最後に、クラスの優等生である黒人女生徒が白人教師に語った言葉に表れていた。−ディスカッションは有益だったし、先生がクビにならなくて良かった。でも正直言うと、たとえディスカッションという場であっても、白人である先生の口から「ニガー」という言葉が出るたびに胸が痛かったの。


 この女生徒は、ラッパーや黒人少年たちがお互いをニガーと呼ぶのを聞いても、不愉快にこそなっても胸が痛んだりはしない。ところが相手が例え教師でも、それが白人だとニガーという言葉は聞くに耐えないものとなるのだ。

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 これは「ちびくろサンボ」問題を思い出させる。サンボに限らず、黒人の黒い肌、厚いくちびる、縮れた髪の毛、または「間抜け」というステレオタイプ性を誇張したイラストやキャラクターには、実はキュートなものもあれば、愉快なものもある。それでも黒人がサンボ系のキャラクターを受け入れられない理由は、それが白人によって作られたものだということ。何百年にも渡って黒人に「おまえたちは、まるでダメな種だ」と言い続け、人間以下の扱いをしてきた白人が、ダメ押しのように、それを誇張したキャラクターを作り上げ、笑う。


 アメリカの黒人の多くは、今でも「黒人である」ということに対して、他の人種には想像すらできないほどの負荷を負っている。そこには目に見えないスイッチがあり、時々ひょんなことからそのスイッチがオンにされると、ドラマの黒人校長のように普段は冷静な人物ですら、動顛してしまう。けれどドラマは、黒人がいつまでもそんな風にセンシティブ(繊細さ、アメリカでは時に「弱さ」と同義語に受け取られる)ではいけない、「ニガー」という言葉、ひいては自分たちの姿や置かれている状況を正面から見つめ直す潮時だ、というメッセージなのだろう、黒人校長自らが生徒と「ニガー」についてのディスカッションをして終る。

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 このように自分たちのエスニシティ(民族性、民族的背景)の表現について、とても繊細で過敏なアフリカン−アメリカンだけれど、彼らも他のエスニックについては容赦がない。もちろん白人と違ってアフリカン−アメリカンは社会をコントロールしているわけではないので、他のマイノリティを雇用面で差別するなどといった体制的なことは出来ない。ところが彼らが日常生活で他のマイノリティ(カリビアン、アフリカン、アジア系など)どう扱っているかというと…。


 昨夜、こちらではかなり人気のある黒人コメディアン、ジェイミー・フォックスの番組を見ていた時のこと。彼は映画「アリ」で重要な役を演じており、主演のウィル・スミスと共にロケでアフリカにも行っている。ジェイミー・フォックスはまず、南ア共和国のアカペラ・グループ、レディスミス・ブラックマンバーゾの歌真似をした。彼はかなりの芸達者で見事な出来だったけれど、あくまで“自分たちのものとは全く違うエキゾチックな音楽”を真似ていたという印象。ジェイミー・フォックスはアメリカ人なのだから、これは当然のこと。そして歌い終ったあとに、ロケ中に見たアフリカ人の物真似に入っていったのだが…。いわく、アフリカ人は体臭がとんでもなく臭い、アフリカにはアメリカのものとはタイプが違う恐ろしいエイズが蔓延している、でも女性は「全員がハリー・ベリー並みの美人」…。


 多民族国家アメリカにはエスニック・ジョークの伝統があり、コメディアンは“誰をジョークの対象にしてもよいライセンス”を持っていると言われる。実際、コメディアンたちは自分自身の属する人種・民族も含めてあらゆるグループを強烈に笑い飛ばす。加えて今回ジョークの対象にされたのはアフリカに住むアフリカ人であって、アメリカにマイノリティとして暮らすアフリカ人ではない。けれどアメリカ在住のアフリカ人(二世、三世も含めて)は、あの番組を見ているのだ。もし白人コメディアンが、昨夜ジェイミー・フォックスがアフリカ人を笑い物にしたのと同じレベルでアフリカン−アメリカンをジョークにしたとしたら、オンエアの1時間後にはテレビ局に黒人団体のリーダーとデモ隊が駆けつけ、大規模な抗議運動が始まることだろう。つまり“ライセンス”を持っているのは、アメリカ生まれの黒人コメディアンだけなのだ。


 アフリカン−アメリカンは、エスニシティの表現・扱いについてダブル・スタンダード(二重の基準)を持っている。


関連エッセイ:アメリカの黒人




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