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2009/3/15


ハーレムの銃
〜自ら命を絶った21歳




「怖い目に遭ったこと、ありますか?」


アメリカの“最も有名な黒人街”ハーレムに住んでいると、よくこう聞かれる。答えはご期待に添えず、「ノー」だ。近年のハーレムは昔と違い、いたってのん気な街なのだ。


そういえば、ひったくり犯と警官のチェイスを見たことはある。両者が全力疾走で私の脇をかすめていった直後に、誰かが「Get down!(伏せろ!)」と叫んだ。警官が拳銃を抜いたのだろう。通行人たちは瞬時にかがむか、手近な店の軒先に一斉に駆け込んだ。そのスピードといったら!


結局、銃声は聞こえず、ハーレムの人々の銃に対する反応の素早さに感心して終わった出来事だった。


ハーレムのとなり町、スパニッシュハーレムはラティーノのコミュニティだ。ここで建物の壁に描かれているグラフィティを撮影しようとしていた時、何をするでもなく壁にもたれていた男に警官が走り寄り、「壁に手を付け!」と命令した。


男がうすら笑いを浮かべながら「オレは何もしてねぇよ」と言うと、若い白人警官はいきなり銃を抜き、それを振りかざしながら、男を壁に押し付けた。


絶好のシャッターチャンス到来にも関わらず、カメラはまだバッグの中だった。しかし、私はカメラを取り出すよりも、とりあえずは10メートルほど後ずさった。好奇心はネコをも殺すというではないか。男がポケットに銃を持っている可能性、前後の見境もなく警官に反撃する可能性がゼロだと、誰に断言できようか。


もっとも、あれしきのことで警官が銃を使うことに疑問が残ったことも確か。きっと警官はルーキーで、悪名高いスパニッシュハーレムでの勤務にびびり過ぎていたのだろう。


実のところ、これまでで最も「怖い」と思った事件は、すべてが終わってから現場を通り過ぎただけのものだ。


昨年(2005年)の夏のこと。午後4時頃だったか、ダウンタウンからハーレムに戻って来ると、そこら中に無数のパトカーと警官があふれていて、道路が封鎖されていた。空には何機ものヘリコプターが舞っていた。

交差点に佇んでいた年配の男性に何事かと尋ねると、「ポリスが撃たれたんだよ」とのこと。それは確かに大事(おおごと)だ。警官が撃たれると、警察組織は躍起になるのが常だ。


結局、その場ではそれ以上の詳細は分からなかったものの、ニュースによると事件の成り行きは以下のようだった。


プロジェクトと呼ばれる低所得者用アパートの前を、1人の若者が、両手に持った2丁の銃を撃ちながら歩いていた。駆け付けた警官隊と激しい撃ち合いになり、2人の警官が負傷。やがて追いつめられた犯人は、プロジェクトの14階にある叔母の家まで階段を一気に駆け登り、そこから母親に電話をかけている。


「警官がやってきたら、オレは飛び降りるよ」
その直後、犯人は言葉通りに14階から飛び降り、死亡した。


犯人は殺人未遂も含め、かなりの前科があった。3日前に同じプロジェクト内で犯人自身が何者かに撃たれており、復讐のための犯行だった可能性もあるといわれている。しかし目撃者によると、犯人は特に誰を狙うということもなく、ランダムに銃を撃っていたそうだ。


犯人の名前はタイレル・ハリス、21歳。タイレルが子どもの頃から何度も何度も犯罪を繰り返してきた理由は何なのだろう? タイレルは何故、撃たれたのだろう? 何故、タイレルは白昼堂々と銃を持ち出したのだろう? そしてタイレルは、何故、自ら命を絶ってしまったのだろう?


道を埋め尽くしたパトカーと飛び交うヘリコプターを今でも思い出す。その映像に、会ったこともない1人の若者の数奇な運命がかぶさる。


本当に「怖い」こととは、誰かの人生をこんな風にねじ曲げてしまう、目には見えない素因と偶然の重なり合いなのだ。


U.S.FrontLine 2006年7月第4週号掲載


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文:堂本かおる