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2009/3/1


ボブのこと
〜黒人文化について書き始めた理由



 私は日本では黒人のことしか書かないライターだと思われている。実のところ、アメリカの日系媒体にはニューヨークの多民族カルチャーと移民についてかなり書いているのだけれど、日本のメディアでは掲載を断られることが多い。日本社会には「移民」という概念や言葉がまだ定着していないからだと思う。


 とはいえ、黒人文化について相当量を書いてきたことも事実で、よく「なぜ黒人なのですか?」と聞かれる。……なぜなのだろう? 思うに、多分、ボブが始まりなのではないだろうか。


 ずいぶんと以前のこと。ミッドタウンにある英語学校に通うためにニューヨークにやってきた私は当初、アッパーイーストサイドにある92Yという施設のレジデンス(ユースホステルのような部屋)に泊まっていた。YMCAのユダヤ系バージョンと言える施設だ。


 92Yに到着したら、まずは警備員に部屋の鍵をもらうことになる。50代後半に見える黒人男性の警備員から鍵を受け取った私は部屋に荷物を置き、しばらくしてからロビーに降りて、同じ警備員に「この辺りで安く食事が出来る店はないですか」と聞いた。もっとも当時の私の英語力では、この程度の会話さえ難しく、愛想のよい警備員があれこれ教えてくれた内容も半分も理解できなかった。なので結局、92Yの向かいにあるコーヒーショップに行った覚えがある。


 以後、ロビーを出入りするたびにこの警備員に挨拶をするようになり、彼もにこやかに接してくれた。92Yは昼間は各種の文化教室、夜は著名人の講演会をひんぱんに開いていて人の出入りが多く、複数いる警備員も忙しそうだった。けれど深夜になると人は途絶え、夜遊びしていたレジデンスの若い宿泊客がチラホラと戻ってくる程度になる。


 私はそんな時間帯に時々のどが渇いて、ロビーに置いてあるジュースの自販機を使うことがあった。すると警備員はすっかりヒマになって退屈しているものだから、私を呼び止めて世間話を始めるのだ。


 彼は人好きのする朗らかなタイプで、私が理解していようがお構いなしによくしゃべった。時々は私の様子を見て、同じことをゆっくりと繰り返すこともあったものの、当時の私は4分の1も聞き取れていただろうか。それでも彼の名前はボブで、かつては警官だったことは分かった。


 日本では警官の知り合いなどいなかった私は、「ポリスだったの? 銃で人を撃ったことあるの?!」と、随分と間の抜けた質問をして、ボブに「……いやぁ、人を撃ったことはないけどねぇ」と、それがまるで警官として失格であるかのような思いをさせた。ニューヨークに来て以来の、「日本と違って危険な場所なんだ、銃犯罪だってひんぱんに起こってるんだ」という思い込みから発した、他意のない質問だったのだけれど。


 ボブは、「そうだ! 銃はもう持ってないが、手錠はまだあるから見せてあげよう。●時に非番になるから、ロビーに降りておいで」と言った。それが何時だったのか覚えていないけれど、言われた時間に降りて行くと、ボブは「本当はダメなんだけどね」と言いながら私を警備員専用のロッカールームに連れて行き、自分のロッカーを開けた。扉の内側のフックに手錠が引っ掛けてあった。きっと記念に取ってあったのだろう。せっかく見せてくれたのだから喜んでみせなくちゃと思い、「すごい! 本物だ! 初めて見た!」と騒いだら、ボブはとても嬉しそうに笑った。


 その後もボブとの深夜のおしゃべり(彼が一方的に話し、私は聞くだけ)は続いた。ある日、彼が何気なく言った。「ボクにはアメリカ・インディアンの血も流れているんだ。ほら、(目頭から頬にかけて)線が走ってるだろう? これが証拠さ」と、自分の顔を指した。


 アメリカ黒人の歴史をほとんど知らなかった当時の私は、黒人とアメリカ・インディアンが混血しているということに驚いた。そもそもは黒人ではなく、アメリカの多民族社会に興味があり、私にとって黒人はそのうちの1グループでしかなく、「昔は奴隷だった」程度の知識しかなかったのだ。


 これがアメリカ黒人への興味の第一歩だったように思う。


 その後にボブに起こった小さな出来事が、別の視点でアメリカ黒人への興味をかき立てることとなった。


 ある日の午後、学校から92Yに戻ると、ボブが言った。「今日、若い日本人女性がレジデンスに入ったんだ。鍵を渡した時、とてもオドオドした様子で気の毒だった。きっと知り合いもいないニューヨークで心細いんだろう。君は同じ日本人だから、あとで彼女の部屋を訪れてあげてくれないか」。


 私はいったん自分の部屋に戻ってカバンを置き、一息ついてからロビーに戻ってボブに「彼女は何号室?」と聞いた。するとボブは「彼女はもう大丈夫みたいだ。友だちと元気に出て行ったよ。きっとボクのことが怖かったんだろう」と、いつになく淋しそうに言った。


 一瞬、意味が分からなかった。ボブほどにこやかで親切な人を怖がる人間がいる? ……そうか、彼が黒人だからだ。


 実のところ、その日本人女性がオドオドしていた本当の理由は分からない。単に英語が苦手、アメリカも初めてで、アメリカ人との会話に慣れていなかっただけかもしれない。けれどポイントは、ボブ自身が「自分が黒人だから恐れられた」と思ったことだった。あの時、私は「これがアメリカに置ける黒人の立場とメンタリティーなのだ」と学んだ。


 やがて私は、アメリカの黒人社会について書き始めた。



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文:堂本かおる