NYBCT

2005/05/30




ダディ、白人がいるよ!
エスニックコミュニティと、その多様化



 黒人コミュニティであるハーレムに住み、なおかつニューヨーク中を歩き回ってエスニックコミュニティのリポート記事を書いている私が言うと不自然に聞こえるかもしれないけれど、ずっと考えていることがある。


 「ニューヨークのような多人種都市で、これほどまでエスニックごとに完全に分断されたコミュニティが存在し続けるのは、何らかの問題があるから」で、それは「不自然であり、不健康だ」ということ。


 新着移民がエスニックコミュニティに暮らすのは自然なことだ。右も左も分からないニューヨークという大都市で英語も話せないとなると、どうやってアパートを探せばいいのかすら分からない。母国の食材や生活必需品もコミュニティの中でなら手に入る。さらにビザなど滞在ステイタスの問題も大きい。コミュニティの中には、たとえ不法滞在者であっても仕事を見つけることができるシステムがあるのだ。だから移民は同国人コミュニティを作りあげ、そこに暮らす。


 でも、もっとも古い移民グループはニューヨークにすっかり溶け込み、固まって暮らす必要が既に無くなっているので、コミュニティは自然消滅している。たとえばミッドタウンイーストにあったドイツ系コミュニティはもう存在しない。ドイツ系のように完全消滅はしないまでも、古いコミュニティほど昔のような圧倒的な「固まり感」はない。経済的に成功した人や、アメリカナイズされた二世や三世たちがコミュニティを出ていき、そこへ他のエスニックグループが入ってくるからだ。


 けれどアメリカ黒人はいつまでたってもコミュニティで固まって暮らす。だからこそリッチなブラックカルチャーが継承されているのかもしれない。だけどアメリカに暮らし始めて400年、居住区の自由を手に入れることができた奴隷解放宣言からだけでも140年が経つというのに、黒人がいまだに固まって暮らさざるを得ない理由がアメリカ社会にはあり、それが問題だと思うのだ。その問題自体はここではさておくとして、以下はニューヨークのエスニックの棲み分けを物語る、ほんの小さなエピソード。


●ブルックリンの女の子


 昨日、ブルックリンにある美味しいカリビアン・ソウルフードのレストランに行った。毎年この時期に
BAM(Brooklyn Academy of Music)で行われる「ダンスアフリカ」コンサートを観に行った帰りだった。余談ながらこのダンスコンサート、一見の価値大いにありの、それはそれは楽しいイベント。去年は本場アフリカのダンスグループ、今年はジャマイカのパーカッショングループが参加していた。会場周辺にはソウルフードやアフリカングッズのブースもたくさん出る。チャンスのある方は来年ぜひ足を運んでみて欲しい。


 着いてみるとレストランは満席だった。テーブル6〜7席の狭い店なので、食事している人たちのすぐ背後に並んで順番を待っていた。


 客は全員が黒人だったけれど、唯一の例外が私の目の前に座っていた家族。黒人女性と白人男性のカップルと、その子ども。白い肌とカーリーな髪で、一目でミックスだと分かる6歳くらいのかわいい女の子だ。


 その女の子がナプキンを床に落としたので拾ってあげたところ、女の子は私の顔を見て驚き、しばらく私を見つめていた。それから我に返って「ありがとう」と言った。


 女の子は隣りに座っていた父親に「ねぇ!(ダディ以外に)白人(white person)がいるよ」と報告した。父親は当の私がすぐ後ろにいるので振り返ることはせず、小さな声で「あの人は白人じゃないよ」と答えた。女の子は「えー? じゃあ、brownなの?」と聞き返した。父親は私に気兼ねして会話を終わらせたかったのか、「そうだよ」と言った。


 brownという言葉は場合によってラティーノを指したり、色の薄い黒人を指したりするので、女の子がどちらの意味で使ったのかは分からない。「そうじゃなくて、私はアジア系よ」と話しかけようかと思ったけれど、父親がシャイそうなので止めておいた。


 女の子は自分のコミュニティで父親以外の白人を見ることがないので、私を見て驚いたのだ。他のエスニックを見る機会も少ないから、私が白人なのか、ラティーノなのか、アジア系なのか見分けることもできなかった。(ちなみに私の容貌は白人には絶対に見えない。夏場に日焼けするとラティーノだと思われることは稀にある。) 父親もあの店でアジア系を見掛けたことがなく、だから私をアジア系だと思わなかったのかもしれない。もしくは白人・黒人に比べると圧倒的マイノリティであるアジア系に対して「あの人はアジア系」ということに妙な(不必要な)気がねを感じたのか。


 とにかく、ニューヨークはエスニックのサラダボウルと呼ばれるがごとく、違うエスニックグループは隣り合うコミュニティに暮らすだけで、なかなか混じり合わない。(白人の父親自身は混じってるわけだけれど、自分を例外だと感じているのではないだろうか。)


●少しずつ進む多様化


 上記のカリビアン・ソウルフード・レストランはブルックリンにある。ブルックリンには広大な黒人コミュニティがあって、そこには主にウェストインディアン、つまりジャマイカ、ハイチ、トリニダード、ガイアナなど、カリブ海諸国からの移民が暮らしている。もっとも、昨日JFKに降り立ったばかりの新着移民もいれば、一世の親のもとにニューヨークで生まれた二世(アメリカ国籍)も多い。ちなみに、彼ら二世のアイデンティティは複雑だ。例えばジャマイカンであり、ウェストインディアンであり、同時にブラックであり、なおかつ当然のことながらアメリカ人でもある。


 それはさておき、ブルックリンのウェストインディアン地区はハーレム以上に黒人の比率が高い。フラットブッシュという地区にある公立小学校のデータを見ると生徒の92%が黒人だった。


 一方、ハーレムには近年、急激にラティーノが増えている。こちらもある小学校のデータを見ると黒人は75%で、あとはラティーノだった。私の務めてい学童保育所(ハーレムYMCA)でもそれはあきらかだ。興味深いのは、アフリカンアメリカンとラティーノのミックスの子どもも増えていること。


 顔立ちがラティーノなのに名字が英語名だったり、アフリカンアメリカンだと思っていた子どもの名字が実はロドリゲスだったり。この子たちはハーレム/ブロンクス生まれのアメリカ人で、文化的にアフリカンアメリカンなのか、ラティーノなのかは、どちらのコミュニティで育ったかによる。


 知り合いの一家は母親がプエルトリコ系、父親がアフリカンアメリカンで、10代の男の子がふたり。ハーレム育ちの高校生の長男は、顔立ちは母親譲りのラティーノ系ながら、「ボクはライトスキン(*)のブラックだ」と言う。ダークスキンで顔立ちもアフリカンアメリカンな上記のロドリゲス少年(9歳)は、スペイン語は片言程度だけれど、ある日コンピュータでドミニカの国旗を一生懸命に描いていた。※light skin=色の薄い肌。対象語はdark skin


 その一方、プエルトリコやドミニカから移住してきたばかりでスペイン語しか話さない子どもたちがいる。YMCAの先生が「この子は英語をほとんど話さないけど、よろしくね!」と子どもを教室に置いていく。ヨロシクと言われても、子どもはスペイン語でしゃべり続けるし、こちらは英語オンリーなので何が何だかわからない。どうしようもない時はバイリンガルのラティーノの子どもに通訳をしてもらう。


 ハーレムには、他にも数は少ないながらウェストインディアもいれば、アフリカ移民もいて、どちらのグループにも母国生まれの子どもと、アメリカ生まれの二世がいる。つまり、ハーレムも少しずつエスニックが多様化してきているのだ。もっとも、あくまで黒人とラティーノのグループに限定されてはいるけれど。


 ただし、この多様化はハーレムの古くからの住人に危機感をもたらしつつある。「私たちの街がラティーノや、再開発に伴ってやって来る白人に奪われるかもしれない」というものだ。これはウェストインディアンが圧倒的多数を占めるブルックリンの黒人コミュニティでは、まだ見られないように思う。エスニックの多様化現象の難しさがここにある。



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