NYBCT

2003/05/26



NYPD再び
繰り返される警察暴力


 NYPD(ニューヨーク市警)の捜査ミスで、一週間のうちにハーレムの住人ふたりが亡くなった。


 5月16日(木)午前6時10分、ハーレム143丁目と8番街の角にあるアパートの6Fという部屋に、NYPDの強制家宅捜査が入った。警官はドアを打ち破り、震盪(しんとう)手榴弾(威嚇・攪乱用に大きな破裂音と閃光を出す手榴弾。爆発はしない)を投げ込んだ。


 NYPDは密告者から「同じビルの別の部屋に住む麻薬と銃の売人(逮捕済み)が6Fに商品を隠しており、獰猛な犬も飼われている」という情報を得た。そこで情報内容の確認作業をしないままに、通称「ノー・ノック・サーチ」(住人の承諾を得る必要がなく、強制的に家宅に入れる捜査)の礼状を取り、平日の早朝に実行したのだ。


 ところが室内にいたのは、出勤のために身支度をしていたアルベルタ・スプリールという57歳の女性だけ。彼女は手榴弾となだれ込む捜査官に驚いているうちに手錠をかけられたが、捜査官は麻薬も銃も猛犬も見つけられず、アパートの間取りも密告情報とは違うことに気付いた。

 けれど時すでに遅く、心臓の悪いアルベルタ・スプリールは心臓マヒを起こし、ハーレム病院に運ばれたものの、午前7時50分に亡くなってしまった。

NYPD
 23日(金)にミス・アルベルタの住んでいた143丁目のアパートに足を運んでみた。(ファーストネームに“ミス”を付けるのは南部の習慣だが、南部出身者の多いハーレムでもよく使われる。ミス・アルベルタも近所の住人からそう呼ばれていた) アパートのロビー入り口には、生前のミス・アルベルタの写真、花束、ロウソクが飾られ、NYPDへの抗議文が貼られていた。

 ミス・アルベルタは独り暮らしで、29年間ニューヨーク市の公務員として働いてきた。公務員就職希望者の書類管理をしていたのだという。その“公務員”の中にはNYPDの警官も含まれる。彼女はもしかしたら、かつて自分が書類作成をした新人警官のミスによって死んでしまったのかもしれない。信仰熱心だったミス・アルベルタの葬儀は、翌24日(土)に、彼女が生前に通っていたコンベント・アベニュー・バプティスト教会で行われた。


 事件直後や、葬儀の際にテレビ・新聞のリポーターにインタビューされた人々は、怒りを表しながらも概ね落ち着いていた。今回の事件では、さすがに市長も警視総監も平謝りだが、「謝罪は当然。しかし警察の捜査方針を変えない限りは、同じことが繰り返される」「個々の警官を責めても仕方がないが、白人の居住区では起こりえないことだ」と、平静に答えていた。


 これがハーレムの人たちの流儀だ。中には怒りを露わに叫ぶ人もいるが少数派。今のハーレムでは、どんな事件が起こっても1991年のクラウンハイツ暴動(*1)、1992年のロサンゼルス暴動(*2)のようなことにはならないように思える。


 かつてO.J. シンプソン事件を手掛けた高名な黒人弁護士ジョニー・コクランが、ミス・アルベルタの家族を代行して、ニューヨーク市に対して5億ドルの訴訟を起こすことが既に決まっている。


 その事件から6日後の22日(木)の午後4時頃、チェルシー27丁目と11番街にある貸し倉庫ビルでも、ハーレム在住の男性が、犯罪捜査に巻き込まれて亡くなった。


 この貸し倉庫ビルは内部が無数の小部屋になっていて、一般人が自宅に収容しきれない荷物を預けるのが本来の用途。けれど、いつのまにか一部の部屋が、西アフリカからの移民がアフリカ産の彫刻や布などを売るバザールになってしまった。


 ハーレムやダウンタウンのアフリカン・ショップで売られているものと同じような商品だが、倉庫ゆえに家賃が安く、価格も安い。アフリカ移民(主に男性の)たまり場にもなっている。本来は倉庫なので照明も薄暗いけれど、何人かが輪になって座り、茶飲み話に花を咲かせている。客が来ればおもむろに立ち上がり、「いらっしゃい。何を探しているの? これ、安いよ」と話しかけてくる。


 これらの店では商品をアフリカから航空便や船便で取り寄せるが、搬送中に壊れてしまうことがよくあるらしく、西アフリカ・ブルキナファソからの移民オスマン・ゾンゴ(35歳)は、別室でその修理職人として働いていた。


 この貸し倉庫ビルは、違法な海賊盤CD・DVD業者にも使われていた。やはり西アフリカからの移民たちだ。今回の捜査はその海賊盤業者を逮捕するためのものだったのだが、捜査官はゾンゴに5発を発砲、4発が命中し、ゾンゴは亡くなった。

・・・・・

 捜査官は私服で、NYPDのバッジを首から下げていたという。捜査官は「ゾンゴともみ合いになり、彼が私の銃を奪おうとしたので、撃たざるを得なかった」と発言。事件現場には防犯カメラはなく、目撃者もいない。ゾンゴを知る人々は、「話し相手の目を見られないほど内気だった」と故人を語っている。


 ゾンゴは母国に残してきた妻とふたりの子どもに仕送りをするために働いていたがアメリカ永住の意志はなかったらしく、英語も話せなかった。


 先のミス・アルベルタの件とは違い、NYPDはこの事件に関しては「捜査を続ける」と発表。つまり、ゾンゴの行動に問題があり、警官の発砲は必然だった、というニュアンスだ。


 1998年に、やはりアフリカ移民のアマド・ディアロが白人警官4人から41発を発砲されて亡くなった事件があった。当時、ハーレムの黒人リーダー、アル・シャープトン師は八面六臂の活躍をしたが、今回の件に関してはその頃のような勢いがなく、発言も慎重だ。アル・シャープトン師は2005年の大統領選への立候補を表明しており、黒人コミュニティをベースにした姿勢は変えていないものの、白人票の獲得を考えると中庸的にならざるを得ないのだろう。


 人々やアル・シャープトン師の態度が控えめであっても、ニューヨークの黒人がNYPDの暴挙に再び腹を立て、不安がっていることは確かだ。ただ、1997年〜2000年に黒人に対する警察の暴力事件が頻発した時には、悪名高きジュリアーニ市長(当時)が「敵」だった。ジュリアーニ前市長は“ニューヨークのクリーンナップ”という名目のもと、徹底的なレイシャル・プロファイリング(人種によって予め捜査の対象を絞ること=黒人とラティーノの若い男性が標的とされた)を行い、態度も強硬だったからだ。


 しかしながら、現ブルームバーグ市長は、ジュリアーニ時代の“市長と黒人の衝突”を反面教師とし、市長に当選した当初からマイノリティ・コミュニティのリーダーたちとの対話を始めた。今回も、少なくともミス・アルベルタの事件では既に謝罪を表明している。


 NYPDを統括しているのは、最終的には市長。だからこそ、警視総監とは別に、市長自らも謝罪したのだが、ハーレムの住人の中には「ブル−ムバーグは、ジュリアーニの“礼儀正しいバージョン”ね」と、皮肉を言った人もいる。しかし、態度の柔らかい相手を「敵」と定めるのは難しい。今、ニューヨークの黒人社会は2件の悲惨な事件を目の当たりにして、しかし抗議するべき相手を見つけあぐねている。


*1 クラウン・ハイツ暴動:ニューヨーク・ブルックリンのクラウン・ハイツ地区にはユダヤ教徒と黒人(カリビアン)が隣り合わせて暮らしており、二者間には摩擦があった。1991年、ユダヤ系男性が黒人少年を車でひき殺してしまったことから暴動が起きた。


*2 LA暴動:1991年に黒人青年ロドニー・キングが複数の白人警官に殴打されたが、翌92年、警官は無罪となった。その判決に憤った黒人が暴動を起こした。事件には関係のない韓国人商店が攻撃の的になったことでも知られる。


アメリカ黒人と在米アフリカ人〜彼らが掲げるリスペクト&ユニティとは
白人警官によるアフリカ移民虐殺事件〜無罪判決
黒人に対する警察暴力〜NY移民社会に潜む事情


What's New?に戻る
ハーレムに戻る

ホーム