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ハーレムの人々


ウェブ・デザイナー:K
ブルース・ドラマー:ウォルター
プレストン・ウィルコックス博士
フィルムメイカー:ビル・マイルズ
デジタル・オールド・ブルースマン:テッド




2000/01/03

ウェブデザイナー:K
Web Designer, K



Kは電話会社ベルアトランティックのハーレム支社でウェブデザイナーをしている20代後半のカリビアン・ガイ。



ベル・アトランティックとは、日本で言えばNTTのような大手電話会社で、ニューヨークを含めた多くの都市で市内通話をコントロールしている。この会社ももちろん一般ユーザー向けのホームページも持っているけれど、これくらい大きな企業になると社内及び支社間のコミュニケーションにもウェブサイトを使う。去年ならY2k問題も含めた顧客サービスについての詳細や社内イベントの告知など、社内ウェブ・デザイナーの仕事は無限にあるそうだ。



大手企業ではあるけれど、社内勤務だからスーツを着る必要のないKは、いつもニートなセーターとスラックス姿で、きちんと手入れのされた靴を履いている。ダーク・スキンにはめこまれたアーモンド型の目の白さが印象的で、細いフレームの眼鏡もよく似合っている。そして肩の長さのドレッドロックを時々片手で払いのけながら、モニターに向かっている。


かつてはオールドスクール・ラップのファンだったこのコンピュータ・ガイは、もうラップを聴くのは止めたと言う。普段はゆっくり眠たげに話す彼がこの時は珍しく早口で、ドラッグとビッチのことしか頭にない今のギャングスタ・ラッパーたちには才能のかけらもないし、第一、子供たちに悪影響を及ぼすだけだと、一気にまくしたてた。家庭と子供、これがなにより大切なものだとも言った。



彼は来年結婚する。ウェディング・パーティとブルックリンに構えるつもりの新居のためにフィアンセと二人で懸命に貯金中の彼は、子供ができたら、その子と一緒にピアノを習いたいと思っている。子供のころピアノを習いたがっていたKを、しかし“賢明”な父親はコンピュータ・スクールに通わせたからと笑いながら言っていた。




2000/01/15

ブルース・ドラマー、ウォルター
Blues Drummer, Walter

紫のタートルネック・シャツにベージュのセーターとスラックス。黒のティンバーランド・ブーツに、トレードマークの先のとがったニット・キャップ。66才のブルース・ドラマー、ウォルターはいつもとってもお洒落。でもプレイ中はにこりともしないし、小柄だけど背筋をしゃんと伸ばして、スネアとシンバルだけの最小限ドラム・セットでたんたんとリズムをキープする姿は、実は大阪・道頓堀の食い倒れ人形の30年後の姿を連想させたりもする。



1933年にアメリカ南部のカロライナで生まれたウォルターは、4歳の時に家族と共にハーレムに移ってきたそうだ。極貧ながらピアノを演奏するお母さんの影響で10才からドラムを始め、“才能があったことを神様に感謝しつつ”ジャズ、ブルース、ラテン、そしてビッグ・バンドからスモール・コンボまで、なんでも演ってきたと言う。だから彼は1940年代以降のハーレムのミュージック・シーンを知りつくしている。今は甥でシンガー&ギタリストのテッドと地下鉄の構内やクラブで演奏しているのだけれど、陽気に喋って歌うテッドや、人目を引くブロンドのブルース・ハープ・プレイヤー、ウェンディの後ろで、今日も今日とて、たんたんと我が道を行っている。“テクニックはあっても、それをひけらかすような叩き方はしないんだよ”


***


黒人差別の激しい南部で生まれ、公民権運動(黒人差別撤廃運動 1960年代に最も盛んだった)以前の時代を知っているウォルターは言う。



“僕は人種差別を‘人種’の問題だと思ったことはない。人種差別も含めたすべての問題は‘人間性’の問題なんだよ。なぜなら(例え同じ人種同士であっても)人は時々、他の人間に信じられないほどの酷いことをするから。特に貧しい環境だと。だから他人とは深入りしないことだ。それに物事はいつも公平とは限らない。すべてはただ神様の采配だから、持てる人とそうでない人がいる”



だけど、このニット・キャップ・ドラマーは決してシニカルではない。



“僕は母から人を尊敬することを教わり、いまだにそれを心がけているし、ただポイントは、人に頼らずに生きる方法を見つけることなんだよ”




1999/12/21

プレストン・ウィルコックス博士
Dr. Preston Wilcox



ウィルコックス博士はハーレムはおろか、ブラック・ヒストリーの生き字引とでも言うべき人物。すべての歴史的事件にまつわる日時や人名、ディテールを暗記している元コロンビア大学の教授で、引退した今もハーレムに小さな事務所を構え、日々、黒人史の調査と研究に打ち込んでいる…と言えば、ツイードの上着に蝶ネクタイを締め、パイプでもくゆらせていそうな感じだけれど、このウィルコックス博士、見た目はやせて腰の曲がったごく普通のおじいさん。私たちが彼の事務所を訪れたとき、開けっ放しの入り口からシャチョーが博士の名前を何回呼んでも返事がない。不信に思ったシャチョーが中に入っていくと、博士は奥の小部屋で補聴器の電池を交換中なのであった。



狭いオフィスは資料の山で足の踏み場もない。実際、詰まれた書類につまずかないように身体を斜めにして部屋に滑り込み、勧められた椅子にたどり着いたら、あとは動きようもなかった。それらの資料をよく見れば学術論文から、黒人モデルを使ったベネトンの雑誌広告まで、まさになんでもあり。70才を越えてヴィレッジ・ヴォイス
(http://www.villagevioce.com)などの雑誌にすら目を通しているのだ。壁には学位の証明書や功績を讚える数々のプレートと共に、彼のライフワークであるマルコムXやブラックパンサーなどの貴重な写真や、今となってはコレクターズ・アイテムとなっているに違いないサイケなポスターが貼られている。



くたびれたセーターを来た博士は、紙コップの冷めたコーヒーをすすりながら、昔の思い出話から最近の研究についてまで陽気に喋ってはよく笑う。耳が遠い人の常で声が大きいけれど、こちらの言うことは時々聞きのがし、会話は「はあ?」「ああ、あれか」「あれは…ということで、いや、ほんとに笑えるな、ははははは…」「はあ?」「ああ、これは…」の繰り返し。でも、その頭脳は驚くべきCPUとメモリを搭載していて、まさに生けるデータベース。



そんな博士が「あれは1973年のことだった。ボーイスカウトを連れてワシントンのイベントに行った時、白人の一団が私たちに近づいて来て『俺たちは、お前たちをリンチするために来たんだぜ』と言ったんだよ…」と言って頭を振り、しばらく黙り込んでしまった。


***


シャチョーはウィルコックス博士の持つ膨大かつ貴重な資料をすべてコンピュータにインプットし、同時に博士自身の脳みそに詰まっている記録をも後世に残すために、彼の語りを録音することを計画している。それらを学生を使ってデータ化し、一般の人がそれを閲覧できるブラック・ヒストリー・デジタル・アーカイブ兼コーヒーショップを開こうとしている。




1999/12/23

フィルムメイカー:ビル・マイルズ
Film Maker, Bill Miles

マイルズ・エデュケーショーナル・フィルムス・プロダクションズ
Miles Educational Films Productions



黒人のカウボーイ。
黒人の兵隊。
黒人の宇宙飛行士。



アメリカの歴史に於て、これらはすべて実在していたのだ。ハーレムに住み、ミッドタウンのフィルムセンター・ビルに事務所を持つフィルム・メイカー、ビル・マイルズは、これらの史実を映画化しつつある。



黒いパーカーとジーンズに黒いベースボール・キャップを被ったお洒落な映画監督は、そのにこやかな表情と穏やかな話し方、小柄な体格のせいで、初対面でも相手をくつろがせてしまう人。



ゆったりとした事務所にデスクとフィルム編集機。書棚にはきちんと分類された貴重な写真や資料と黒人史にまつわる書籍。入り口脇の別のドアには“トップ・シークレット”の貼り紙がしてあり、彼の撮り溜めたフィルムが収めてある。それらを私に見せながら、ひとつひとつを丁寧に説明してくれる。まだまだ農場だらけだったの1800年代後期のハーレム。そこに投資して財を築いた黒人不動産王。今もなお健在でお洒落な、1920年代コットンクラブのダンサー。1983年に実際に宇宙に翔んだのに、なぜか白人たちの記憶から消えてしまっている黒人アストロノーツたち。



彼が第一次世界大戦で活躍した黒人兵をテーマとしたドキュメンタリー映画を作ろうとした時、白人出資者は誰ひとり、その話を信用しなかったそうだ。第一次世界大戦時に黒人兵はいなかったと。その結果、ビルが“Men of Bronze / The Black American Heroes of World War I” (
http://allmovie.com/cg/x.dll?UID=2:45:32|AM&p=avg&sql=A32188) を1977年に作り上げるまでには実に12年を要したと言う。その後、ブラック・アストロノーツの映画を作ろうとした時にも、またも同じ問題に面したそうだ。



フィルム・メイカーとは、すなわちアーティストであると同時に、常に資金繰りのことを考え、出資者との交渉を重ねるビジネスマンでもある。一体どうやって、そのふたつを使いわけているのかと尋ねたら、答えは「ひたすら忍耐」ということだった。


***


ビル(ウィリアム)・マイルズ 監督作品ディスコグラフィー
http://allmovie.com/cg/x.dll?UID=2:45:32|AM&p=avg&sql=B102804




1977 Men of Bronze(ドキュメンタリー)




1992
Liberators(ドキュメンタリー)
Nina Rosenblum との共同監督
ナレーション:ルイス・ゴセットJr.、デンゼル・ワシントン
1992年アカデミー賞ベスト・ドキュメンタリー・フィーチャー・ノミネート



他にも“I Remember Harlem” など、多数のテレビ・ドキュメンタリー作品を制作。



ウエブサイト http://home.earthlink.net/~milesef/
※ハーレムや黒人史関連のフィルム、写真をメディアに貸し出しもしています




1999/11/25

デジタル・オールド・ブルースマン
テッド aka フロイド・リー
Digital Old Blues Man, Ted aka Floyd Lee

於:Grand Central Station
42nd St. Lexington Ave.
New York, NY



マンハッタンの中央駅グランド・セントラル・ステーションに限らず、ニューヨークの地下鉄の駅なら、いつでもどこでも音楽があふれている。R&B、ラテン、民族音楽、ジャズ、ロック、クラシック…と、ありとあらゆる種類のミュージシャンが演奏している脇を人々は足早やに通り過ぎるけれど、気に入った時には立ち止まってしばらく聴き入り、チップをギターケースや箱に投げ入れ、そして立ち去る。運が良ければたった1ドルのチップで、とんでもなく素晴らしい音楽を聴くことが出来るのだ。



この日はかなり年季の入ったブルースマンが小さなスピーカーを床にすえて歌っていた。しばらく聴いていると、そのブルースマンというより、ただの気の良さそうなおじさんに見えるミュージシャンが私に「日本人か? 東京の高円寺や中野区でプレイしたことあるぞ」といきなりローカルなことを話しかけてきた。高円寺なら住んでたことがあると答えると妙に喜んで盛んに話し出したはいいけれど、「年で耳が遠いから、もっと大きな声で話してくれ」ときた。えー、ミュージシャンなのに大丈夫なのか、このおじさん…と危ぶんでいたら、なんと「ライブのスケジュールを教えるから、メールアドレスを教えてくれ」と言い出した。おまけに自分のホームページも作りたいのだと言う。なんとまぁ…である。



私のアドレスと引き換えに、売り物の新作CD“Down Home”を「いいから持っていけ」と手渡し、またギターを弾き始めた彼は、ミシシッピ育ちのハーレマイト(ハーレムの住人)、テッド・ウィリアムズaka フロイド・リー。



ちなみに駅で話している時はBaby だの Damn だのの連発だったけれど、翌日届いたメールの文面はとても礼儀正しいものだった。

地下鉄ライブスケジュール → 
http://home.earthlink.net/~BluesTed/
メール(英文で) → Twill40894@aol.com

 

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